História da Escola de Língua Japonesa Aliança [沿革 えんかく]


História da Escola de Língua Japonesa Aliança [沿革 えんかく]

アライアンス日本語学校の沿革

(「ブラジリア日本語普及協会10年史」53・54ページから抜粋)

1960~80 連邦区初の日本語学校

アライアンス日本語学校の校名は、世界宣教を使命として米国で創立されたキリスト教団「アライアンス」の名前を冠している。学校が附属するブラジリア・アライアンス福音教会は、ブラジリアの衛星都市ヌクレオ・バンデランテスの教会が並ぶ一角にある。

学校の歴史は長く、ブラジリアが首都になったのと同じ1960年に誕生した。もちろん連邦直轄区では初めての日本語学校だった。

教会附属の学校とは言え、生徒の大半は信者ではない。開校時から信者だけを対象にした学校ではなかった。ブラジリアを拠点に伝道を始めたばかりの宣 教師二宮睦子さんが教会開拓と同時に、周辺に住む日本人移住者の要請で学校を始めた。最初の授業は12月4日。故石川碧さんの農園に板で造った小屋で行っ た。

二宮さんは愛媛県の出身。1959年に渡伯し、1年余りパラナ州マリンガの教会で奉仕をした後、新首都での伝道を決意した。日系コロニアの中で未教化の地を選んだという。

<当時ここは治安が悪く電気水道もない極めて生活するのに悪条件の所であった。多くの知人友人から反対された。若い女性が一人で出かけていって住め る処ではないと言って。その声を聞くとき恐ろしく不安であった。しかし、実際行って見もしないで引き返すのはそれこそ不信仰と自分に言い聞かせて出かけて 行った>(1996年、ブラジリア・アライアンス福音教会発行「開拓宣教36年記念」より)

二宮さんが最初に住んだマリンガでは、メソジスト愛光園教会が1953年に日本語学校を開き、戦時中、日本語を禁止されていた移民の人たちに喜ばれ た。二宮さんも日本語学校を通して地域に溶け込むことを心がけたと思われる。授業は週4日。畑仕事に忙しい親に代わって子どもの面倒をみる形になった。別 の農園にできた教会堂を経て67年に現在の場所に移った。

二宮さんは師範学校を卒業しており、「お遊戯が楽しかった」と振り返る人が今もいる。

授業は読み書きを重点にしていたという。生徒の中には、同じヌクレオ・バンデランテスでブラジリア日伯文化協会が土曜に開いていた日本語学校と両方 に通う生徒もいた。そちらの学校で教えていた弓削瑞子さんも日本の師範学校を出ており、二宮さんと仲がよかった。「二宮さんに習っている子たちは漢字を勉 強したがりましたね。教えやすかった」と弓削さん。

二宮さんは心臓病の治療で帰国した時期はあるが、80年まで授業を続けた。その後、96年に宣教師を引退し、日本に帰国した。

1980~94 中断と再開

二宮さんの後、学校は休校状態になった。

一方で87年に信徒の松下紀美子さん、上野すみよさんが日本語の教室を始めた。場所はアライアンス福音教会やヌクレオ・バンデランテスの公立小学校 などを借りた。89年には「平成学園」と命名し、リオ州日伯文化体育連盟に私立の日本語学校として登録した。89年調査では生徒23人とある。しかし上野 さんが多忙になったことなどから同年いっぱいで閉校した。「続けて、と言ってくれる人はいたのだけど」と、上野さんは残念そうに振り返る。

アライアンス日本語学校の再開は94年。安井敏明さんが教会の主任牧師に就任してからだ。安井さんはサンパウロ出身の2世だが、流ちょうな日本語を話す。ブラジリアに来て後、数人から「日本語学校をしてもらえないか」と頼まれ、学校の再開を決めた。

しかし安井さんに日本語教師の経験はなく、ブラジリア日本語普及協会に相談しながら再開準備を進めた。またキリスト教の南米宣教会(東京)にボラン ティア教師の派遣を依頼し、中学の英語教師をしていた栗原豊さんの派遣が決まった。当時27歳だった栗原さんは職を辞して2年の任期でブラジルに来ること になった。

94年2月に学校を再開させた。教師は安井敏明さん、弘子さん夫妻。間もなく栗原さんも加わった。生徒はすぐに30人を超えた。

日本へ出稼ぎに行く予定の人もたくさん来たが、その分、生徒の出入りが激しかった。

1994~99 教会を地域交流の場に

授業は水、金曜の週2日で、午前と午後と夜の部がある。午前、午後は子ども、夜は大人。現在の生徒は5~27歳の20人で、3世の児童が多い。非日系は日系人のつれあい1人だけ。生徒のうち6人は親が二宮さんの教え子だ。

児童のクラスは授業の合間に、オルガンに合わせて日本の童謡や賛美歌を歌う。週に1度は聖書の話や日本民話の語り聞かせがある。

歌の指導をするのは伝道師でもある大路あゆみさん。1歳の時に来伯し、日本語、ポルトガル語両方が達者だ。96年から教えている。

96年からは、安井弘子さんと大路さん、それに日本からのボランティアの計3人の指導体制となっている。ボランティア教師は栗原さんの後、98年まで浜田献さんが務め、3人目として99年8月に村田ゆかりさんが就任した。

学校代表者の敏明さんは「ボランティアが日本の風を運んでくれる」と話す。日本との交流が常にあるので教材も少しずつ充実してきた。

教育目標は<日本語教育を通し、日本文化の良きものを伝えていく。聖書を通し、失われがちな情操教育も行い、全人格的、国際的な日系人が育つことを目指したい>としている。

現在は生徒に信者の子弟はいない。弘子さんはこう説明する。「教会を知ってもらえるから、それはそれでいい。教会を信者だけの場所でなく、地域の人と対話の場にするのが私たちの願い。学校はこれからも続けたい」

農業の不振による経済的な事情や、「日本語より英語」の風潮によって、生徒が減っている。一方で「出稼ぎから帰ってきた家庭の子どもたちの居場所としても日本語学校の役割があるのではないか」と敏明さんは考えている。「出稼ぎ帰り」の生徒は、いま6人いる。 (宮沢)