Escola de Língua Japonesa INCRA [沿革 えんかく] - Brasília-DF (desativada)
インクラ日本語学校の沿革
(「ブラジリア日本語普及協会10年史」58~59ページから抜粋)
★1973~86 祖国の文化と道徳を
<1973年インクラ植民地に日系人多数入植。2世、3世に日本語の必要を思い日本語学校創設。子供に祖国の文化と礼儀道徳等伝承>
「日本語学校要覧」(1996年、JICA発行)には、インクラ日本語学校の沿革及び教育目標の欄に、そう書かれている。
校名は周辺を管理するINCRA(土地改革院)の名にちなむ。首都ブラジリアの食糧基地建設と位置づけられたサバンナの開拓にあたった日系人の子弟のための日本語学校として発足した。
内田豊子さんが最初の校長だった。内田さんら地元の主婦3人が教えた。いま85歳の内田さんは、教員のなり手がいないため98年から教壇に戻ってきている。
学校の運営は父兄会が担った。現在の校長村上長松さんは74年から父兄会長兼教員を務めた。生徒増加で教員が足らなくなっていた。
村上さんは「最初のころは教えやすかった。家に1世がいるから。子どもは日本語を聞いて慣れていた」と振り返る。
村上さんのメモによると、生徒数は開校した73年が42人、翌74年には82人に急増。さらに75年には103人に達し、学校の歴史の中で最多の数字を記録した。しかしその後は減少傾向で、84年には50人を割った。
教員の数は74年が1人増えて4人に。75~83年は5人。84年からはまた4人になった。
インクラ日本語学校の歌
1、北に気高き山を見て
南に清き水たたえ
野を広々と吹く風は
若き生命(いのち)に呼びかける
インクラ日本語小学校
2、世紀の嵐すさぶとも
祖国日本にけいうけた
吾等のとうとき教えには
世界平和を呼びかける
インクラ日本語小学校
3、人類愛をそだてゆく
万国人のへだてなき
教えは広くブラジルの
幼き心に呼びかける
インクラ日本語小学校
★1986~87 青空教室を経て
70年代後半に地元の日本人会がアレシャンドレ・グズモン農村文化協会(ARCAG=アルカージ)とインクラ農村文化体育協会の2つに分かれたが、日本語学校には両団体に所属する家庭の生徒が一緒に通っていた。
校舎はアルカージの会館を使っていた。しかし86年に村上さんたちインクラ農村文化体育協会に属する教員、生徒が会館の教室を出た。学校も日本人会と同様に分かれることになった。
インクラの側の学校は校舎がなく、授業は村上さんの農場のマンゴーの木の下で行われた。その青空教室が5カ月続いたという。
その後半年余り、地元の公立学校を借りたり、運動場に建てた小屋を使ったりして授業を続けた。その間、自前の学校兼会館の建設を目指して、バルゼン・ボニータやリオプレットの日系人団体にも寄付を依頼し、翌97年にINCRAの組合の建物を改築した校舎を完成させた。
インクラ日本語学校
校長 村上長松
インクラ日本語学校は1973年、日系多数が入植、日系二世三世に日本語の必要を思い、村上がインクラ日伯文化協会の会長のとき婦人会の役員と話し合い、日語学校の父兄会と日本語学校を創設し、一期の父兄会長を大城竹治さんにお願いした。
74年から校長は野林婦人、村上が父兄会長と教師兼任、教科書を加藤商店にお願いしてサンパウロより日伯文化普及会の本を一巻から九巻取り寄せた。九巻で卒業した。
1986年までは日本語学校も親が一世なので、家庭内で日本語が日常会話ゆえ日本語を教えるのに教師自身が自己研修を必要とした。生徒より多く質問があったからで、また生徒が自分からサンパウロに行き、能力試験1級2級に合格した生徒もいた。
今は生徒の親が二世なので、家庭内でブラジル語が日常会話ゆえ、学校で週1日にて読解、文字、聴解は難しい。学校として も、モデル校より能力試験の解答用紙をお願いして学習している。下級生には1991年より「一、二、三、日本語ではなしましょう」と、「きそにほんご」 1~4、絵カード1、2の270枚で学習している。
父兄にも、家庭ではできるだけ会話は日本語で、用事も日本語、しかる時も日本語でと、お願いしている。先生たちにも日本語の会話に重点を置くようお願いしている。
生徒には自分から進んで学習し、日常会話を日本語で、日本の新聞を読めるよう期待している。
★1987~97 3世の生徒が中心に
教科書は創立から95年まで「にっぽんご」(日伯文化普及協会)を使っていた。91年からは「一、二、三、日本語ではなしましょう」や日本の国語教科書などを併用した。
「にっぽんご」の使用をやめた96年からは「きそにほんご」と「一、二、三L」、それに絵カードなどを使うようになった。
生徒は9年間、つまり「にっぽんご」の巻九まで勉強したら卒業することになっていた。「にっぽんご」を使わなくなってか らも卒業の基準は9年間となっている。ただしここ数年、卒業生がほとんどいない。93年ごろに8期生の卒業式があり、その後は97年に1人が9期生として 卒業しただけだ。上級生になると、地元学校の勉強が忙しくなり、9年続く生徒が少ないからだ。
90年代に入ると、生徒は2世に代わって3世が中心になってきた。88年から教えている飯野兵二さんは「教師を始めてから3年ぐらいは、やりやすかったけれど、全然話せない子が増えて教えるのも大変になった」と話す。
飯野さんは54年に19歳で来伯し、その翌年からしばらくサンパウロ州バストスで日本語を教えた経験がある。子どもたちが熱心だった印象が強い。
村上さんも飯野さんも「昔は授業の準備をしておかないといけなかった。いろいろ突っ込んで聞いてくる生徒がいたから。最近は質問も出ない」と口をそろえる。
「結局は親が使うかどうか。家でまるで日本語を使わないから、なかなか話せない」
★1998~99 後継者探しが課題
いま授業は土曜の午後に3時間行っている。4~17歳の28人を、3クラスに分けている。生徒は非日系人が2人、混血が7人、日系では3世が多い。「話せるように」が、とりあえずは目標だ。
3人の先生はいずれも1世。幼児、児童を内田豊子さん、12~15歳を飯野さん、15~17歳を村上さんが受け持っている。教室は仕切りを設けて3部屋に区切ってある。板にペンキを塗った手製の黒板が各教室にある。
内田さんの教室では、雑誌から切り抜いた写真を見せて会話の練習に使っている。内田さんは唱歌の指導をすることもある。七夕の時には、短冊に願いを書かせて竹につるさせた。
村上さんは、過去の日本語能力試験の問題を用意して模擬テストとしてさせている。聴解の問題もカセットテープを流して回答させる。
授業料は最低賃金の6%にずっと抑えてきた。現在7ヘアイス。農業の状況がよくないし、引き上げるわけにいかない、という。
学校の財源は月謝のみだから、その分、教師の手当が少ない。1カ月40ヘアイス。「ガソリン代も出ない」と村上さんらは苦笑する。
そうしたこともあってか教師の後継者がいない。3人の先生の平均年齢は77歳になる。後継者探しが課題だが、村上さんは「百姓が忙しいとかで、なり手がいない」と話す。
これからのインクラ日本語学校はどうなるのか。「日本人の子どもにはやっぱり日本語を教えないと、いけないんじゃないか」「国際化の時代だし、日本語も必要になる。意欲のある子がいれば、学校は続いていく」
村上さんと飯野さんはそう話した。
(宮沢)